「見えない困難」は、なぜ理解されにくいのか
乙武洋匡さんのXの投稿を読んで、改めて考えさせられたことがありました。
それは、「障がいが見えるか、見えないか」で、周囲の理解のされ方が大きく変わってしまうという現実です。
投稿の中で語られていたのは、学習障害(LD)のある子どもたちのこと。
もし「両手両足がない」という状態であれば、鉄棒を求められることはありません。できなくても、「努力不足」とは言われないでしょう。
でも、「読むこと」「書くこと」が難しい子どもたちはどうでしょうか。
見た目にはわからないからこそ、
・やろうとしていないのではないか
・もっと頑張れるのではないか
そんなふうに受け取られてしまうことがあります。
「配慮」は特別扱いではなく、環境調整
私はこれまでの現場で、似たような場面を何度も見てきました。
たとえば
目が悪い人が眼鏡をかけることは、ごく自然に受け入れられていますよね。
でも、聴覚過敏のある人がイヤーマフを使おうとすると、
「目立つから」
「周りと同じようにしてほしい」
と、使うこと自体をためらわされてしまうことがあります。
本来はどちらも同じはずなんです。
その人が「本来の力を発揮するための手段」であるという点では。
それでも扱いが変わってしまうのは、
・多数派にとって馴染みがあるかどうか
・一目で理解できるかどうか
そんな“わかりやすさ”に左右されているのかもしれません。
「見えない=存在しない」ではない
見えない困難は、ときに「存在しないもの」として扱われてしまいます。
でも実際には、
・読むと文字が歪んで見える
・音が過剰に響いてしまう
・情報処理に時間がかかる
そんな体験の中で、日常を過ごしている人がいます。
そしてそれは、「気合い」や「努力」でどうにかなるものではないことも多いのです。
一人ひとりに合った方法を選べる社会へ
今回の投稿の中で印象的だったのは、
「どんな方法で学習するのかは、その子に合ったものを認めてほしい」
という願いでした。
これは学習に限った話ではなく、
すべての人に共通することだと感じます。
・静かな環境で力を発揮できる人
・誰かと一緒のほうが安心できる人
・目で見るより耳で聞くほうが理解しやすい人
人によって「やりやすさ」は違います。
その違いを「ズレ」として矯正するのではなく、
「特性」として尊重できるかどうか。
そこに、安心して生きられる社会かどうかの分かれ目があるのかもしれません。
見えないものに想像力を
目に見えない困難を、完全に理解することは難しいかもしれません。
でも、
「もしかしたら、この人には見えていない何かがあるかもしれない」
そう想像することは、誰にでもできます。
理解できるかどうかよりも、
理解しようとする姿勢を持てるかどうか。
その小さな違いが、
誰かにとっての「生きやすさ」を大きく変えていくのだと思います。
あなたが、あなたらしくいられますように

- くれたけ心理相談室(川崎支部)心理カウンセラー
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くれたけ心理相談室 川崎支部
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